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写真で見る自分と鏡で見る自分どちらが本当の自分?〜永遠に会えない自分という存在のパラドックス

皆様いつもご覧くださいまして誠にありがとうございます。

 

写真を撮った際に、

「何だかいつも鏡で見ていた自分と違うな」

「写真の方がブサイクに見える」

といった感想をお持ちになったことなどないでしょうか?

私は写真を取ると、いつも自分がブサイクに見えてしまい、その度に自信を失ってしまいます。

そこで今日は、写真で見る自分と、鏡で見る自分というのは、一体どちらが本当の自分なのかを考えていきたいと思います。

よろしくお願いいたします🙇

 

 

鏡で見る自分と写真で見る自分

まず、鏡で見る自分の姿ですが、これは皆さんがいつも見ている自分であり、自分がいつもイメージしている自分に、1番近い姿なのではないでしょうか?

よく世間一般で言われるのは、「鏡は左右反対に映った姿である」ということです。鏡においては、それだけがいつもの自分と違う面であり、現実とは全く相反する部分でもあります。

しかし、鏡に映る自分の姿形や見た目のバランスや雰囲気だけを見るならば、本当の自分の実像に一番近いと言えるでしょう。

対して、写真で見る自分というのは、左右反対ではなく、他人から見える見え方としては、自分の実像の姿であると言えます。それが理由で、写真で見る自分の方が、本当の自分の姿であるという意見が多くあるのだと思います。

そう言われてしまうと、写真でみた時の、あの想像していなかった自分と出会ったような違和感、あのブサイクな自分が、本当の自分なんだと言われると、とても悲しくなってしまいますよね。しかし、厳密に言えば、私はそうは思いません。

 

 

写真で見る自分は本当の自分ではない

写真で見る自分も、厳密には本当の自分でなく、どちらかといえば鏡で見る自分の方が、他人が肉眼で見る本当の自分の姿に、1番近い存在ではないかと私は考えます。

何故なら、写真またはフィルムというのは、ある一方向から見た姿しか映していないからです。

人間の目というのは、常に一点を見ている訳ではなく、ありとあらゆるところを多面的に目で捉えて、総合的に判断しています。写真は特に、角度によって、体全体のバランスが変わってきますし、また、光の加減によっては影が生じて、凹凸がより強調されたりしてしまいます。

写真はその一瞬の画角を捉えているわけですから、何気なく取った時に、映りが悪くなるのは当然のことでしょう。大袈裟に例えると、瞬きをしている瞬間に写真を取ると変な顔に映るように、理想とする顔を意識できない環境下に置かれれば置かれるほどに、映りが悪くなる可能性が高まると考えられます。

世の中に出回っているタレントさんやモデルさんの写真などは、プロのカメラマンが、写真の特性や難しさを理解した上で撮ったものであり、良い写真を取るために、全て計算され尽くしたものです。

よくテレビタレントさんなどを雑誌やテレビ、映画で見るよりも実物で見た方が数倍綺麗で、顔がとても小さかった、などという話もよく聞きますよね。そうしてやはり、実物と写真は、違うものだと捉えたほうが良いのではないかと思います。写真が本当の自分とはかけ離れて見えるのは、その一瞬の裏に隠れている数千数万の自分の良さを知っているからこそ、そう感じて当然のことであると私は思います。

 

 

自分の本当の姿は決して自分で見ることができない

しかし結局のところ、自分で自分の本当の姿を見る術はありません。鏡であれ、写真であれ、動画であれ、厳密には本当の自分とは違います。他人がいつも見ている自分の姿だけが本当の自分の姿なのでしょうか?

不思議なもので、自分というものを、客観的に正しく見ることはできないのです。自分のことを自分が一番良く知っていると思われがちですが、本当は自分が一番自分のことを知らないのかもしれません。

そう考えていきますと、私達が自分を認識するためには、他人の評判と鏡の中の自分、写真フィルムの中の自分などを総合的に合わせ見て判断するしかありません。しかし、他人がそこまで自分のことについて、ちゃんと見てくれているわけでもなければ、正直に答えてくれるわけでもありませんし、それに他人も他人で好みや目の付け所や、価値観がそれぞれ違うので、見え方もそれによって違ってきます。

マッサージの接客業をしている経験から、私の事をブサイクだと思う人もいますし、凄く綺麗な人だと絶賛してくる人もいます。私はその度に、一喜一憂して、自信をもったり、逆に自信を失ったりしてしまいます。そう考えると、人によっても、また見え方が全然違うのだというのとが分かります。見る人の身長によって角度も違ってくるし、見るポイントも違うし、そもそも好みが全く違って、これもまた、どれが本当の自分なのか結局は分からないということになります。

要するに、どこをどう切り取っても、自分というものは、ボヤッとした霧の中にいるような存在で、どこまで行っても、ハッキリと確認することが出来ない存在なのではないでしょうか?

そう思うと、とても不思議なことてすよね。

 

 

もしも自分の本当の姿を見ることができれば、世の中は平和になるかもしれない

もしも私達が、本当の自分の姿を見ることが出来たなら、私達の見方はどう変わっていくでしょうか?

私達は時に、自分の物差しで自分のことを悪く見たり、よく見たりしています。しかし、本当の自分の姿を知らないのですから、自分の悪いところも、良いところも、自分ではよく分からないのが本当のところです。

もしも、本当の姿を見ることが出来たなら、新しい自分の発見になるはずです。それは、とても愛されるべき存在であるかもしれませんし、とても憎むべき存在なのかもしれません。

しかし、私達はある意味、本当の自分を見ないで済んでいるから、物事をやり過ごせているのかもしれません。自分で分かってはいても、直せないことってありますよね?

『だらしなさ』や『はしたなさ』なんていうのがそうです。よく『そんな事したら、あんただらしないわよ』とか『はしたない事してはダメよ』なんて言われることがありますが、なかなかそう言われても自分では、自分の姿が見えていないわけですから、人間はそれを直ぐには正そうとしません。歩き方しかり、食べ方しかり、立ち振舞や、態度、全て実際に自分がやっている姿を見ていないから、そうした事を頭の片隅に置いておいて、やり過ごせるのです。

自分の本当の姿を見れば、過ちに気がついて、『だらしなさ』や『はしたなさ』というものも無くなってしまうかもしれません。

それとは逆の意味合いで、『力みすぎ』だということも、世間ではよく言われます。他人から『君は力みすぎだよ。もっと力を抜いてしなきゃだめだ。』なんて言われても、自分ではなかなかどうしようもありません。人から力を抜けと言われたって、そう簡単に抜けるものではないのです。

しかし、自分で自分の本当の姿を見ることが出来たなら、一瞬で状況が理解できて、『なるほど、力みすぎだな。少し力を抜こう』と、スッと肝に収まって、直ぐに対応できそうなものです。

 

 

こうして考えてみますと、本当の自分の姿を見ることが、いかに自分を変えることに繋がるのかが分かります。もし、自分のことを知り、変えるべきことを素直に変えることが出来れば、とてもバランスの良い立ち振る舞い方が出来るのではないでしょうか?

人間は頭でっかちで、どうしても素直に人から言われることや、状況を飲み込めないものです。

少し話は大きくなりますが、ウクライナとロシアの戦争や、パレスチナでのイスラエルとハマスの戦争などもそうではないでしょうか?

みんな頭に血が登っていて、自分のイデオロギーの為には、何が起きても進むことの一点張りになってしまっています。その崇高なはずのイデオロギーの為に起こした行動が、悲劇をもたらしてしまっているのです。

周りが見えなくなって、自分のことを客観的に且つ冷静に見れなくなってしまっているから、変えるべき時に、変えるべき事を変えられず、また、守るべきものを守れないという、無限の泥沼にハマってしまっているとも捉えることができると思います。

もしも、各々が本当の自分の姿を見ることが出来るなら、互いに自分の悪さを恥じ、認めるべきところは認め、弱いものを守られ、世の中に争いが無くなって平和が訪れるのかもしれません。

本当の自分を見つめるためには、世界を知り、その中で自分の言動や行動、立ち振舞がどんな風であるか想像を働かせなければなりません。鏡に映っていない時の自分は、どんな表情をして、どんな風に笑っていて、どれほど悲しんでいるのか、また、それが誰にどう見えているのかと、想像を巡らせることで、自分が自分らしく、幸せに生きられるように計らっていく他ないのだと思います。

 

私は取り敢えず、綺麗と言ってくれる人を大事にしながら、ブサイクだという人の意見にも少し耳を傾けて、其々に適した対応を取っていきたいと思います。

 

 

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