ずっとあなたの側にいてあげられない
暖かな日差しが戻った朝と昼との間の静かな隙間、吉彦はまだ眠気の醒めない中にいて、まだ体の端々に残る気怠さに身を委ねていた。
カーテンの少しの隙間からでも明るい日差しが差し込んで、無邪気に自慢する子供のように暖かな陽気を伝えていた。
土砂降りの雨が降っていた空は、翻って今朝は晴天霹靂で、とてもサッパリとした爽やかな女性のように溌剌としている。
彼はエイッヤッと少し背筋に気を入れて体を起こす。
流行る日差しに応えるべく、カーテンを開け、申し訳程度に日差しを浴びた。朝の光に目を細め、ゆっくりと階段を降りて食卓のあるリビングへと向かった。
次第に家の中にある小さな工場の小さな騒がしさが聞こえてくる。
彼は扉を開けて妻・幸子の顔に目をやった。
「あ、おはよう〜。もう起きたのね。昨日、遅かったからもう少し寝てるかと思ったわ。」
「ああ、目が覚めたから朝メシ食おうと思って。」
「うん、今から用意するね。」
幸子はそう言って、お気に入りの白と黒のフリルの付いたエプロンを結び直して朝ご飯の支度を始めた。
彼はいつものように見るでもないテレビ画面を付けて、一番煩くないのに合わせて、一先ずは目線を預ける。
ただ頭の中で眠ったままの思考を呼び覚ましている。
「はい、できたよ。」
「う、うん。」
「大丈夫?すごく眠たそうだけど。疲れ溜まってるみたいね。」
吉彦と幸子は結婚してもう今年で25年を過ぎていた。
しかし、不思議と彼の中で妻・幸子はずっと昔の彼女のままで変わらない。
彼が他の夫婦と比べて、唯一優越に浸ることのできるものであり、それは彼の幸せを裏付けしてくれるものであった。
彼にとって幸子の為に生きることが幸せそのものであり、それが人生の最高の幸せであると思っていた。
「あまり無理しないでね。倒れたら大変だよ。」
「大丈夫、大丈夫」
そういって大きく頷いて笑ってみせる。
「もう、心配ばっかりさせて。」
幸子はそう言って、吉彦のことをとても心配そうに見つめる。
彼は彼で、悪気なく幸子が心配してくれることが嬉しいのである。
「今日さ、朋子さんとお出かけしてもいい?久しぶりにデパートにお食事行こうって誘われてるの。ねぇ、いいでしょ?」
「まあ、いいよ。もう行くことになってるんだろ。」
「うん、まあね(笑)」
彼女は方を口をすぼませてお馴染みの表情をすると、変わらず満面の笑みを見せた。
「あなたももっと好きなことしていいんだよ。少しは蓄えはあるんだし、働いてばっかりいないで誰かお友達と遊んだきても私は大丈夫だよ。」
「俺は別にいいよ。いいから行っておいで。」
「またぁ、私ばっかりなんか悪い人になっちゃう。分かったわよ。」
そう出かける支度をしにそそくさと2階にを上がっていく幸子。
吉彦は同僚の矢島と話したことを思い出していた。
「あなた、自分のことは自分でちゃんとしてね。もし私が死んじゃったら、わたしはずっとあなたの側に居られないんだから。心配させないで。」
彼は矢島が彼の奥さんに言われて、話した時の曇った顔を思い出した。。
「木村さん、俺もね、その時は軽く返事をしたんだけど、後になって考えると、何だか変な気持ちになってきちゃってね。すいませんね、変なこと言うようで。俺はもしもアイツが居なくなったらって考えると、全部が消えてなくなるような気がしたんですよ。悲しくなって俺まで消えてなくなってしまうようなね。」
矢島と吉彦は一つ違いである。
矢島も妻のことを愛していた、似た者同士であった。
「あなた、行ってくるわね。帰りは3時頃になると思うけど。お昼何か適当に食べてて。ご飯は炊いてるからね。」
そう言って、彼女はいつもより上品にし立てた黒でタイトなワンピースを身に纏い、玄関を足早に出ていった。
扉が閉まる瞬間、外の空気が彼女の残り香を連れてくる。
吉彦はそれから何をするでもなく、暇を持て余してはソファーに体をドカリと預けて幸子を待つという休日を過ごすのである。
彼はテレビの大きな画面とスマートフォンの小さなソレとを往復しながら、帰りをずっとずっと待っている。
家の庭の前の公園では、子供達の無邪気に遊ぶ姿が見える。
男の子も女の子も小さな子も大きな子も一緒にただ駆け回って。
それを見ながらずっと待っていた。