幸子と吉彦の出会い
「ただいま〜」
周りは何処の家も寝静まろうとしている中、玄関の扉が開いたのは夜の11時過ぎである。
週に一度は、幸子がこうして日頃の鬱憤を吐き出すように、一頻り遊んで帰って来ることが夫婦間では通例のこと。
「何か食べてきたか?」
「あっ、食べてきた。シャワーだけして寝るから。」
「そうか、、そこに林檎を剥いて置いてあるから。」
「うん、今日はもういい。」
言葉だけを交わして、幸子はテーブルに置いてある爪楊枝の刺さった林檎には目もくれず、コップ一杯の水道水を一気に飲み干した。
そして、とても気だるそうに欠伸をして、洗面所の方へと歩いていった。
吉彦は少し乾きかけの林檎を一切れかじって、洗面所の引き戸の閉まる音を聞いて、一人寝室へと向かった。
窓からは冷やりとした夜風が吹き込んできて、静かにその日の終わりを告げようと鈴虫が鳴いている。
吉彦はベッドの上に大の字になって、幸子と出会った日のことを思い出していた。
今からちょうど20年前のことである。
当時二人はまだ20代前半で、お互い遠く離れた地域に住んでいた。
SNSなどの無い時代。
二人はあるネットの掲示板で知り合い、そこでメールアドレスを交換して、毎日やり取りするようになった。
彼女は中学2年生のある日を境に、学校にはいかなくなり家に引きこもりを続けている少女。掲示板の中での彼女は、「もういつ死んでもいい」と溢す毎日。
吉彦はそんな彼女をメールで励まし続けた。
20代も過ぎて、女っ気の無かった吉彦は、彼女を励ます傍ら、そんな彼女が自分のタイプで、しかも綺麗な人ならとの想像と願望を巡らしていた。
吉彦は幸子に、彼女の出来ないことを打ち明けては、しきりに「どんな顔をしてる」だとか「背格好はどんな」だとかを聞き出そうとして、ただ胸を膨らませていた。
しばらくして、二人は会う約束をした。
胸の高鳴りが抑えられなくなった吉彦から言い出したことである。
当然、最初は吉彦が幸子の住む街に会いに行くことになった。
新幹線で片道約1時間半をかけて、顔も知らない女の子に会うために、行ったこともない田舎町に、吉彦は降り立った。
待ち合わせの時間になっても誰も来ない。
「恥ずかしいので、駅から少し離れた場所でお願いします。」
彼女からのメールであった。
駅から少し離れた人気の少ない方の通りに出ると、一人の女性がこちらに向かって来るのが見えた。
彼女は、中学2年生から時が止まったように幼い顔をしていた。
寝間着のような上下鼠色のスウェットを着ており、痩せ細った青白い顔をしていた。眼の前に現れた少女に吉彦はたじろいで、至極、勝手に期待を裏切られたような気持になった。
自分が想像していたのとは、明らかにかけ離れた女性の姿だった。
幸子は、同じ20代の女性では考えられないくらいに、化粧やお洒落をしていない素をさらけ出していた。しかし、その時の彼女は彼女なりに一人悩みの中にて、そんな事の自覚は毛頭無かったのである。
二人はお互いがそうであるのだと直感的に示し合わせてから、並んで歩き始めた。
河川敷に座って話そうとして、川沿いを二人で歩いた。
「ちょっと、すいません」
二人で歩き始めて少しすると、後ろから男性の声をかけてきた。
「お父さん!」
幸子はそれまでのとても不安で緊張した面持ちとは打って変わって、満面の笑顔を見せた。
幸子の父親が吉彦の眼の前に現れたのである。
長年引きこもり生活をしてきた幸子のことを心配した父親が、後をつけてきていたのである。
吉彦は懸命に自分が決して悪人ではないことを説明しようとした。
父親はそんな真面目そうな吉彦を見て少し安心をようだった。
それから、3人は父親の車に乗り込んで、近くのファミリーレストランで食事をすることになった。
食事中、幸子が父親に見せる笑顔が吉彦には印象的であった。
出会った時の見窄らしい彼女の姿とは打って変わって、その汚れのない素敵な笑顔は、吉彦の脳裏に焼き付いた。
二人は父親のエスコートで、街の観光を一通りこなして、夕暮れ時に駅で別れを告げた。
「今度は沢山お洒落してお化粧して来てみて、絶対、綺麗になると思うから。」
吉彦はそんな風に幸子をまるで自分のお人形さんのような我儘を言って、また会う約束をした。
「あらっ、まだ寝てなかったのね。」
幸子はそう言って鏡台の前に座って髪をとかし、毎月入れ替わる化粧水を顔に浸した。
「今日は、アレだな。お前、覚えてるか?お前と初めて出会った日のこと。」
彼女は背を向けた鏡越しに横目でチラリと吉彦の方を見ながら、心の僅かな葛藤を隠しきれず、不機嫌そうに眉をしかめる。
「うん、そうね。。今日はよく歩いたし、何だか疲れちゃった。。あなたも早く寝たらどう?」
「俺は眠くないから少し本読んでからにするよ。」
そう言って吉彦は小さなベッドランプの明かりをつけ、途中だった小説のページを開いた。
幸子は部屋の明かりを消して、深くため息を付くようにして、また夢の中に潜り込んだ。。