ユリブロ

目指せ奇跡の50代、遅咲き男の娘ユリのブログ。略して『ユリブロ』

 

男社会のメンタリティと女装社会のメンタリティ

 

はじめに

皆様いつもご覧くださいまして誠にありがとうございます。

 

今回は男として、または女装としてのメンタリティについて語っていきたいと思います。

 

女装をする人それぞれだと思うのですが、私の中での男の時と、女装をした時とどう違うのかというところをお話できればと思っております。

 

女装というのは、化粧をし、カツラを被り、女性ものの衣服を着ることですから、別の言い方をするとすれば変装とも呼ぶでしょう。変装をすることは普段の自分を隠して他人を装うという意味にも取れますが、私が趣味とし、又は生業としている女装というものは、普段隠してしまっている本来の自分を表現するというところに本質があります。そんな私の女装感から見たそれぞれのメンタリティ、精神性を語っていきたいと思います。

 

 

男社会のメンタリティ

私は正直に言って、男として生きているととても窮屈に感じていました。いつも周りから知らず知らずの内に抑圧されてしまっているようにさえ感じてしまっていました。

しかし、年月を経る過程で、自分を出せないということは私の中で当たり前のことのようにもなっていました。それは、厳然たる男の社会では、出してはいけないとされるメンタリティが存在している為に自ずとそうなってしまっているのだと思います。例えば、男らしさの反対である女々しさであったりがそうです。男でいることは別の意味では奔放な面や、男社会の確立されたヒエラルキーで勝ち負けを競うような闘争本能というものがが要求されがちです。それを勝ち取ろうとすることができる楽しさや、やり甲斐はメリットでしょう。そして、度々それを羨む女性の方も多くいらっしゃると思います。しかし、時として私のような人間にとっては、その男社会で勝ち抜くための男らしさという性質が、時として己への刃となり得るのです。

 

私は長年そんな男社会で闘ってきたわけですが、思えば、私にとってはとても苦しいことでした。

物事に勇ましさの無い私にとっては、何を言われても我慢する忍耐力と、心此処に非ずとするような冷静な判断力だけが武器でした。そんな努力と忍耐のみで少しは相手を制圧することができましたが、それも長続きはしません。男として弱点のある私への攻撃は度々行われ、皆息を吸うように足元を掬ってきます。そして何れは、それに耐える気力が尽きてしまうのです。

男社会で生きていくということは闘いであり、勇者でなければなりません。勇ましく攻撃していく力が必要であり、そんな男に女性は惹かれるのだと思います。

 

女装社会のメンタリティ

しかし、女装をしている時というのはそんな世界からは少し遠ざかっていることができました。女装をして女性のようになると、男社会の中での競争は無くなって、逆に女装をした自分をめぐって男が競争をし合うという全く正反対の性質が生まれていきます。そこが基本的に私が感じる男としてのメンタリティと、女装としてのメンタリティの大きく違う部分です。

思い返してみて、私は子供の頃どんな子供だったのか、それを思い出しますと、まさに知らず知らずに女装としてのメンタリティで生きてきたと今は分かります。どちらかというと私は自分から友人を作るタイプではなく、自分自身の身の処し方を工夫したり磨いたりして、それを周りの人に見てもらうことで友人になってくれる人を待つというタイプでした。今思えば、そんな自分を必要としてくれる友人がいてくれたことは感謝です。

そのメンタリティはどちらかと言えば女性に近いものだったと思います。小学生くらいの子どもの頃は、私が本能的にそう振る舞っているものですから、私のことを争って喧嘩する友人までいました。そんな事を思い出す度に“なんてことさせていたんだ”と心が痛くもなってきますが、それが私の本質なのだと今になって分かるのです。

 

女の人もそうなのでしょうか?はたまた女装をしている私だけがそうなんでしょうか?他人がどう考えているのかは分からないですが、冷静に見れば、おそらく世間一般の女性もそんな風に自分を磨いて、そして男を待っているということが大筋の性質としてあるのではないでしょうか?

 

勿論、女装としての競争というものもあります。それは男が自分を争ってくれる程に自分を磨いて、他の女装さんなりニューハーフさんなりと競争していかなくてはならないということです。そこは男社会の競争と枠組みとしては同じなのかもしれません。

しかし、競争をする種目が全く違うということにはなります。単純に種目分けをすると、男が腕力や権力を競う競技なら、女装や女性は愛嬌を競う競技になるでしょう。その闘いの種目が全く違っていれば、そこにある感情も違ってきます。男は喧嘩して殴り合ったらノーサイド。喧嘩したあとは後腐れなくサッパリとしていてとても清々しいです。それとは違い、女装として愛嬌を争うとなると、世間一般で女性達の争いは醜いと言われるように、確かに人としての愛嬌を競う分、内に秘めた嫉妬や憎しみなどの感情は男よりもかなり複雑ではないかと思います。そういう同性同士の競争のあり方というのも男のメンタリティと、女装のメンタリティには大きな違いがあると考えられるでしょう。 

 

 

まとめ

男社会のメンタリティと女装社会のメンタリティを語ってきました。こうして自分が生きている社会を区分けしてしまえば、生まれてから死ぬまで、どちらで生きたほうが生きやすいのか判別がつきやすいとも思います。また、こうした社会の特性を知ることで、上手く適応できる人いる反面、適応できない人がいるのが何故なのかということも理解できるでしょう。

人生というトーナメント戦を、勝って勝って勝ちまくって行ければ、そのままでいいのだと思いますが、やはり人間は殆どの人がそうは行きません。何処かで必ず負けて、また何処かで折り合いをつけて落ち着く場所を探さなければなりません。それは人それぞれにその人に合った居場所というものがありますし、自分にあった競争の場を選んだ方が、少しでも生きていく上で有利に働くことでしょう。

現代はジェンダーレス化やダイバーシティ化が広く叫ばれていますが、男だとか女だとかを境い目なしに、固定概念を外して自分が楽しく生きられる場所や、上手く生きられる場所をいち早く探して生きて行くことが、人生を生きる上での先手必勝となるでしょうし、むやみに自分自身を傷つける必要もなくなるのではないでしょうか。

 

もっと多様な社会へ発展し、誰もが楽しく生きられる社会へ、活躍できる社会となることを願っています。

 

ご清聴ありがとうございました🙇

 

 

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