ユリブロ

40歳を過ぎて女装マッサージセラピストデビューを果たした、超遅咲き男の娘ユリのブログ。略して『ユリブロ』

泥沼のパレスチナ問題を調べました!〜素人ゆりが1から解説します。

はじめに

皆様いつもご覧くださいまして誠にありがとうございます。

最近、ハマスやイランとイスラエルとの間で、一触即発の問題が大きなニュースとなっています。ハマスとイスラエルの争いが続く中、発端はイスラエルがシリアのイラン大使館を空爆したことから始まりました。

イスラエル側の主張は「イラン革命防衛隊が標的だった」とのことでしたが、結果、イラン革命防衛隊の幹部7人とシリア市民6人がイスラエル側のミサイル攻撃により死亡したとのことです。

そして今度は、大使館を空爆され、自国の軍隊の幹部に加えて、シリアの一般市民が巻き込まれたことに怒ったイランが、イスラエルへ何百発ものロケットミサイルで報復攻撃をしました。結果は、数発だけがイスラエル領土に着弾し、99%は迎撃ミサイルで撃墜されたとのことです。

ミサイルが飛び交う映像には、第5次中東戦争が起きることを人々に連想させ、にわかに世間が騒がしくなってきました。そして、即座にイスラエルはイランにドローンで報復。この報復は規模の小さいもので、イスラエル側がイランとはこれ以上争いを悪化させないのではないかと言う意思表示であると巷では言われています。

そして先ごろ、イスラエルのネタニアフ首相から、争いが続いているハマスが実効支配しているガザ地区ラファへ、停戦合意の有無に関わらず侵攻する旨の発言がありました。仲介国を介して提出されたイスラエル側の休戦案は仲介国により大きく修正されており、イスラエル側とハマス側の休戦案に大きな隔たりがあった模様です。

アメリカのバイデン大統領は、イスラエルが本格的にラファに侵攻するなら、武器を供給しないと発言し、ラファ侵攻を牽制していますが、争いの連鎖が終わる気配は全く見られません。

 

一体この先どうなっていくのでしょうか?

この機会に、中東情勢について勉強していきたいと思います。よろしくお願いいたします🙇

⬆こちらはパレスチナの地図です。その中心にあるのが聖地エルサレムです。エルサレムは、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の3つの神様の聖地が交わる場所として、長らく歴史にそのなを刻んできました。

その大部分をイスラエルが支配しており、エルサレム周辺の地域にWestbank(ヨルダン川西岸地区)を現在は穏健派のファハタが支配し、Gazastrip(ガザ地区)を強硬派のハマスが支配している状況です。

 

 

パレスチナの歴史

歴史を遡ると、西暦70年頃までの大昔のパレスチナには、ユダヤ人が住んでいました。しかし、ユダヤ人達は当時強大な力を誇ったローマ帝国に滅ぼされてしまい、パレスチナから追い出され、それぞれ離れ離れに散っていくことになります。(このことをディアスポラという)

そしてその後に、パレスチナに住み着いたのがアラブ人達でした。

世界各国に散っていったユダヤ人の歴史は、迫害の歴史だと言われています。その理由は、キリスト教が広まったことが影響をしています。キリスト教の祖であるイエス・キリストは、ユダヤ人によって十字架に掛けられてしまいました。その経緯から世界各国で、ユダヤ教を信仰するユダヤ人達は迫害を受けてきたといわれています。

迫害を受け、不遇な目にあってきたユダヤ人達は、いつの日かパレスチナの地に、自分達だけの安住の地を作りたいと願うようになります。それが『シオニズム運動』と呼ばれるものです。19世紀に入り、シオニズム運動は始まり、それをイギリスが支援することになります。

当時のパレスチナ周辺の広大な土地を、オスマン帝国という巨大な国が支配していました。

 

三枚舌外交

19世紀始めに、オーストリアの皇太子夫婦の暗殺を引き金として起きた第一次世界大戦において、イギリスはフランス、ロシアらと共に、オーストリア、ドイツ、イタリアらと闘っていました。

その中で、オスマン帝国はドイツと同盟を結びます。オスマン帝国がドイツと協力すれば、イギリスは中東に進出できなくなってしまう為、策略を考えたのです。

まず、イギリスは、オスマン帝国の切り崩しを図る為に、同じアラブ人で反オスマン帝国のアラブ人達に、共にオスマン帝国と戦ってくれるなら、アラブ人達の独立国家を作っていもいいと持ちかけました。これを『フセイン・マクマホン協定』(1915年)といいます。

しかし、一方でイギリスは、金融業で莫大な富を築いていたユダヤ人の資金力に目をつけます。ユダヤ系の財閥であるロスチャイルドの資金力が目当てだったとも言われています。

協力してくれたなら、イスラエルの建国を支援すると約束します。これを『バルフォア宣言』(1917年)といいます。また、その裏では、オスマン帝国を倒した後に、フランスと領土を分け合う『サイクスピコ協定』(1916年)を結んでいたのです。

イギリスが交わしたこの3つの約束が、世にいう有名な『三枚舌外交』というものです。イギリスがオスマン帝国を倒す為に取ったこの策略が矛盾を生み、後のパレスチナ問題のキッカケになったとされているのです。

 

 

第一次世界大戦後のパレスチナ

第一次世界大戦後、オスマン帝国亡き後のパレスチナは、イギリスが委任統治をすることになりました。

しかし、ユダヤ人とアラブ人との間で争いは酷くなるばかりでした。ホロコーストをキッカケとして、イスラエル建国の機運が高まる中で、1947年に国連で、パレスチナ分割決議がなされました。

その内容はというと、領土をイスラエルの地域と、パレスチナの地域とに分けるというもので、聖地エルサレムにあっては、国際管理下に置くというものでした。

しかし、その詳細は全人口の3分の1であるユダヤ人に領土の56%を与えるという不平等なもので、アラブ人の反発は必死でしたが、ユダヤ人達はそれをそのまま受け入れ、1948年5月14日にイスラエル建国を宣言したのです。

 

第一次中東戦争

しかし、当然これを受けて、アラブ諸国は憤慨することになります。

1948〜1949年、第一次中東戦争の勃発です。イスラエルとパレスチナ(アラブ諸国:エジプト・ヨルダン・シリア・レバノン・イラク・サウジアラビア・イケメン)の争いは始まりました。

最終的にはイスラエルの勝利に終わり、パレスチナの大部分をイスラエルが占領し、ガザ地区はエジプトが、ヨルダン川西岸はヨルダンが支配する形になりました。結果、多くのパレスチナ人が追い出されて難民となり、ガザ地区やヨルダン川西岸に移り住むことになりました。この時に約70万人もの人が難民になったと言われています。

そして、現在に至るまで、パレスチナの難民は600万人近くにも登っているとのことです。同時にパレスチナへのユダヤ人の入植者が増えていき、次第にイスラエルの実効支配が強まっていきます。

 

 

第二次中東戦争〜第四次中東戦争

1956年には、第2次中東戦争が起きます。

エジプトのスエズ運河国有化に端を発するイギリス、フランス、イスラエルとの間で起きた戦争です。結果はエジプトが勝利し、イギリス・フランス軍の撤退に終わりました。

1967年には、それまで争いがくすぶり続けていた中で、イスラエルの奇襲攻撃により第3次中東戦争(イスラエル対エジプト・シリア・ヨルダン)が起きます。

結果はイスラエルが圧倒し、1949年に定められていたグリーンラインと呼ばれる国際法上のラインを越えて、パレスチナのほぼ全土を支配下に置くことになりました。

1973年には、第4次中東戦争が起きました。第3次中東戦争においてイスラエルに占領されていた領土の奪回を目的に、エジプトとシリアが、それぞれスエズ運河、ゴラン高原を奇襲攻撃したのが始まりです。

イスラエルはアラブ側の戦闘能力を当初舐めていたので、かなり苦戦したのですが、結果はイスラエルの勝利で終わります。

同時期に、パレスチナの外では、パレスチナ解放機構=PLOが発足し、第3次中東戦争でイスラエルに奪われた領土の奪回を目的に、武装闘争をはじめていきます。そして、争いは長く続いていくことになります。

 

 

オスロ合意〜束の間の平和

しかし、1991年に、オスロ合意がなされます。

ノルウェーの首都・オスロにて、アメリカのビル・クリントン大統領を仲介者として、パレスチナ解放機構アルファト議長と、イスラエルのラビン首相が握手を交わしました。

これにより、パレスチナの自治を認め、イスラエル軍にヨルダン川西岸とガザ地区から軍を撤退させることになったのです。

 

しかし、中東情勢というものは、そう簡単には行くものではありません。共存できると思った矢先、2002年に、イスラエルの後の首相となるシャロン氏がエルサレムのイスラム教の聖地に足を踏み入れてしまったのです。これによって、イスラム教徒達が暴徒化していき、空気は一変していきます。イスラエルでは、イスラム過激派のテロがはじまることになってしまいました。

 

 

パレスチナ分裂〜ハマスの台頭

2004年、それまでパレスチナを纏めてきたアラファト議長が亡くなりました。それを受けて、穏健派である『ファハタ』のアッバス議長が引き継ぎますが、2007年過激派のハマスが選挙に勝ち、ガザ地区はハマスが支配をしてイスラエルと対立し、ヨルダン川西岸は穏健派のファハタがイスラエルと和平交渉を行うというように、パレスチナが分裂してしまう結果となったのです。

その後は、ハマスがイスラエルへロケットを打ち込み、イスラエルが報復する繰り返しています。

また、トランプ政権時に、UAE、バーレーン、ヨルダンなどがイスラエルと国交を樹立。アメリカ、イスラエルとパレスチナの駆け引きが続いている状況です。

 

 

第5次中東戦争の可能性高まる

イランとの攻撃の応酬

先に述べた通り、シリアにあるイラン大使館がイスラエルによって空爆を受け、今度はイランがイスラエルへミサイル攻撃で報復をいたしました。何故、そもそもイスラエルはイランと対立しているかというと、イランはハマスやヒズボラ、イラクのイスラム抵抗運動、フーシなどの、様々な武装勢力を支援しているからに他なりません。イスラエルとイスラム過激主義勢力の戦争の背景には、こうした大国の支援があるのです。

 

ラファへ侵攻

そして、イスラエルはガザ地区のラファへの大規模な侵攻を計画しています。ガザ地区のラファは、エジプトの国境に隣接する地域に存在し、ハマスのテロを警戒するイスラエルがガザ地区との国境沿いに壁を建設し、人と物の出入りを制限し、戦争が激しくなる中、エジプト国境に隣接するラファへ流入する難民が増えてきました。

このラファには、エジプト北シナイ県からラファ検問所を通して、ガザ地区への生活物資が搬入されており、数多くの地下トンネルがあるとされていて、食料や必需品の他にも、武器の密輸が行われていることでも知られています。イスラエル側の思惑は、このラファを制圧して完全に武器の流入を止めることにあるのでしょう。

 

 

ガザ地区の現状

ガザ地区に住むパレスチナ人難民は約170万人は、ガザ地区全人口の8割にも及びます。人工の大多数が深刻な貧困や食糧難に悩まされており、そのうち60万人は飢餓状態にあるとされています。

ガザ地区は、周りを壁で囲われ、人と物資の制限されていることから、『天井のない監獄』と呼ばれているのです。

世界1人口密度が高い都市として知られ、1平方キロメートルたあり6018人もの人が密集しており、ガザ市や各難民キャンプにおいては、それを大きく上回る、1平方キロメートルあたり4万〜5万人ものパレスチナ人難民が密集しているのです。

パレスチナ人難民が救われるためには、一刻も早く戦争が集結して、人や物の流入が行われる必要があります。

しかし、イスラエルはハマス壊滅の為に、残された供給源てあるラファへの本格的な侵攻を始めようとしています。

令和6年3月17日のユニセフの調べたガザ地区の現状では、戦争によりガザ地区の約13000人もの子供が亡くなっているとのことです。また、ガザ地区に住む子供達は、多くが栄養失調状態にあり、『泣く力も無い』と言われるほど目も当てられない悲惨な状況だそうです。

 

一刻も早く、事態が改善して、罪のない市民達が救われる日を願いたいと思いますが、誰もがこのパレスチナ問題の解決策が見えない中で、時間だけが過ぎ去って行ってしまっているのが現状です。

 

もっとこうした現状に目を向けなければならないと思いました。

 

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