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女装子ゆりのブログ

 

 

心の旅路〜成仏禅問答

 

ここはある山奥に建てられた寺の方丈。

 

この寺には生き仏と呼ばれている住職がおり、その噂を聞きつけてやってくる修行僧が数多といた。

 

これは住職と修行僧の問答修行の一部である。

 

修行僧問う、

「住職様、成仏とはいかなるものでありましょうか?」

住職答う、

「成仏とは仏の境涯にいたるということです。ほとけの境涯に至るということは仏のように優れた感覚を持つに至るということです。」

修行僧問う、

「仏のように優れた感覚というのはいかなるものでありましょうか?」

住職答う、

「それはあなた自身の中にもあるもの。金のある無しに関わらず、また知識のある無しに関わらず、誰の中にも差別なくあるものです。」

修行僧問う、

「それは例えばどのようなものでしょうか?」

住職答う、

「外から見るならばあなたが毎朝経を唱えお勤めしている姿に他ならない。あなた自身にはその自覚も感覚も無いけれども外から見ればそのような状態になっているのです。」

修行僧問う、

「私は毎朝お勤めさせて頂いておりますが、しかし、自分でもそれが何の為になっているのかもまだ分かりませんし、私の頭の中には常に雑念が湧いていてとてもじゃありませんが成仏という状態になっているとは思えません。それでも外から見ればそれは成仏ということになるのでしょうか?」

住職答う、

「そうです。例えばある野球好きな子供がいたとしましょう。その子にはセンスも無ければ度胸もない。何をやっても上手くいかず自信もない。だがある時、憧れの選手に出会ってバットの降り方を教えてもらった。その何が良いのかも分からず見様見真似でやってみることにした。その子はとても素直に教えられた通りにバットを振ってみると不思議なことにボールがバットに当たるではないか。そのように人の心の中では自信もなければ何も無いけれどもその境涯に至ることがある。そしてそれを継続することで段々と感覚が芽生え、やがてそれは自分自身のごとく身に付いて素晴らしい野球選手となることもあるでしょう。このように成仏の境涯というものも毎日の積み重ねで次第に感覚が芽生えて、自分の中に根付くのです。」

修行僧問う、

「野球であれば結果というものも目に見えるようですが、私達の毎日のお勤めにも野球のように試合に出て結果を出すようなことがあるのでしょうか?」

住職答う、

「具に見ればあります。例えば、好きな歌があったとしましょう。その歌を聴くと心が癒やされる。ある時、皆でカラオケに行き好きな歌を歌う。その歌を聴く人の中には少しばかり歌を聴いて心が癒される人もいるでしょう。その歌は自分が苦労して作った歌ではないけれども、その歌を歌うことで歌を作った人の功徳というものを僅かに受け継ぐことができる。そのように経の中にも先人の功徳というものが詰まっていて、唱える人の心も他人の心をも癒すのです。」

修行僧問う、

「なるほど。では住職の云われる、成仏の感覚とはどのようなものなのでしょうか?」

住職答う、

「人の感覚というものは、具に見れば9つ存在しています。視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、この5つは誰もが自覚できるものですが、内面に深く行くにしたがってあと4つある。1つ目は意識。意識とはつまり考えること。次に末那識。末那識とは自分を成す自我のこと。3つ目は阿頼耶識。阿頼耶識とはこれまでの自分の行いに基づく経験が作り上げた本棚のようなもの。そして、最後に阿摩羅識。阿摩羅識とは他の8つよりもさらに深い深い静寂な場所にあって煩悩のない清浄無垢な感覚をいう。つまり阿摩羅識とは仏の境涯であり、仏の感覚のことをいうのです。」

修行僧問う、

「阿摩羅識の感覚というものが仏の境涯なのでございますね。では、仏の命は永遠と云われておりますが、この阿摩羅識に到達することで我々は永遠に生きられるということでありましょうか?」

住職答う、

「その通り、仏の境涯というものは永遠なのです。人も動物も皆仏性を備えているけれども、煩悩が盛んでそのことに気がつないのです。」

修行僧問う、

「どうして煩悩があることで気が付かないのでありましょうか?」

住職答う、

「こういう話があります。昔むかし、朝から晩まで荷車を引いて働いている牛がいました。毎日毎日ヘトヘトに疲れて、狹い牛小屋に帰れば臭い飯を食って寝る毎日であった。牛は思った、、『荷車を壊せば自分の毎日も楽になるのではないか?』、、、ある日の朝、牛はある時飼い主の目を盗んで荷車ごと壁へと凄い勢いで走った。そして壁の前で急旋回して見事に荷車だけを壊すことに成功した、、、。『やったぞ!これで奴隷のような毎日から抜け出すことができる』、、、、その日の夜、牛は心底ぐっすりと眠ることができた。、、、しかし、翌朝になると飼い主がさらに頑丈で重たい牛車を備えていた。牛の目には涙が浮かんだ。、、牛はさらに重い荷車を引いて毎日を送ることもなったのである。

この喩えにあるように、日常の中にも自分が気づかない感覚というものがあるのです。人間は好きなことをして好きなものを食べて、好きな時に寝て起きてということをしたくなるものです。しかし、そうしているうちに体は悪くなって以前よりも重くしんどくなってきてしまう。時に人は煩悩で心が満ちている為、より優れた感覚に気が付かない時があるのです。これだけ沢山の人がいる中で誰一人として仏になる人がいないのもその為なのであります。」

住職と修行僧はこうして1時間ばかり問答をした。

修行僧は住職の答えを自分の心の中で反芻しながら、時折頷き、目線を上げてしばらく考えていた。住職は目を瞑ったまま、ただ鳥の鳴き声を聴いていた。

少しばかり時間が過ぎて、修行僧が口を開いた。

修行僧問う、

「その我々が生きていて気がつかねばならないこととは何でありましょうか?」

住職答う、

「うむ。それは己が常に守られていることである。」

修行僧問う、

「守られているとは?」

住職答う、

「人は時に愚痴を言いたくなることがあるでしょう。『今日はついてなかった』『過去は失敗ばかり』『明日はもっと良い暮らしがしたい』と、しかしそうではなく気がつかねばならないことがあるのだ。実に、人は常に守られて生きている。例えば、身体にある疱疹が出来たとしましょう。その疱疹を見て人は『なんだこの疱疹は』と愚痴をこぼす事でしょう。しかし、そのもっと以前にはその疱疹の病毒というものが自分の気が付かぬ内に身体の中に入っているのです。その病毒というものはいつ何処からやってきたのか。数日前かもしれないし、数年前かもしれない。いや生まれてすぐその病毒とともに生きてきたやもしれぬ。実は身体の奥底では常に免疫というものがそれらと常に闘っている。そして、その闘いを知らぬまま時が絶って疱疹となって出て来た時に人は愚痴を言うのである。人は神などおらぬと言うであろうが、天の働きを知らぬ。生まれてから死ぬまで天に守られていることを知らぬのである。」

修行僧問う、

「はい、、生まれてから私達はずっと何かに守られながら生きている。。しかし、私達は様々な煩悩によってそれをいつしか忘れてしまう。どうすれば忘れずにいられるのでしょうか?忘れずにいる方法はあるのでしょうか?」

住職答う、

「それは『信心』の一言に尽きる。」

修行僧問う、

「信心、、私は寺に来て数年の月日が経ちますが、常に住職は信心をと仰っておられる。私の理解が足りず、信心というものが今だ本当の意味で何を意味するものなのかが正直分かりません。信心とは一体何をどうするということなのでしょう?」

住職答う、

「自分が感じる心を信じることです。」

修行僧問う、

「読んで字のごとく、『心を信じる』それがどう忘れずにいられることに結びつくのでしょう?」

住職答う、

「信じていなければ、自分の苦しみも悲しみも喜びも分からない。人は同じ事をしていても感じる心が違う。もしも、全ての人の心の基準が同じで、皆がそれに従わねばならなければどうだろう?とても辛いと心で感じることがあっても笑っていなければならなければどう思う?とても心が苦しくなるだろう。それは知らない内に病毒に侵されていることと同じことだ。自分の心は自分を守る為に天から与えられた唯一の羅針盤であり天との架け橋である。そしてそれを天はいつも側で寄り添って見て手を差し伸べている。信じていなければそのことに気が付かないのです。それでは余りにも不憫であるがゆえ、法の道を志すものは人に信心を説くのです。」

修行僧問う、

「なるほど。信心というものがこの私にもよく分かりました。しかし、住職。住職葉以前山を下りて聴衆の前で説法をなされた事がありました。私はまだ出家しておらずごく普通の暮らしをしておりました。その時、住職はいまのような『信心』のことであったり、法話を交えずに、頭痛の言葉でつまり『物事は慎重に気を付けてやりなさい。焦らず安全にしてください。』ということをとてもシンプルなことのことを仰っておられました。聴衆の中には在り来りな事を言われ面白くない顔をしている者もいました。何故、あの時はあのようにシンプルなことをお話されたのですか?」

住職答う、

「それは機が熟していなかったからであります。『機』つまり人々の機根というものがある。現代の人々は仏のことも、その説法も、学び、聞く機会がないに等しい。それは土壌に未だ植物の種が植えられていないのと同じこと。そんな種の植えられていない土壌にいくら水を撒いて栄養を与えても植物は育たない。だから、まずは人々の心に種を植えるために敢えて難しいことは云わずにシンプルな言葉を使ったのです。その機がやがて芽を出し実が備わり熟していくに従って、説法というものもそれに呼応してされるのであります。」

 

つづく、、、