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人は「不安」というものの捉え方は人それぞれです。
不安なものに対して、どういう捉え方をしているかで人生における様々なものの見え方が変わってきます。
私の父はよく、「ややこしい奴」という言葉を使います。
父は不安な対象の人やものに対して、「ややこしい奴」という名称を付けて父なりに分別しているようです。
でも私はそれを聞く度にいつも、あまり良い感情にはなりまけん。
「ややこしい奴」という表現が、人や物に対してとても否定的な言葉なので、自分も時にそういう見方をされていると思うと、自ずと嫌な感情になってしまいます。
私の父は不器用な方で、ただひたすら真面目に会社勤めをし、何十年も耐えて耐えて勤め上げ、定年退職をし今は家にいます。
昔はよく会社の社長の愚痴を家でこぼしていました。
話はしませんが、おそらく定年するまでの長い会社勤めの中で、沢山嫌なことがあったのでしょう。
そんな父の生き方に染み付いた「ややこしい」か「ややこしくない」というとても後ろ向きな表現の分別を、いつか死ぬまでに少しは前向きにしてあげたいなと考えてきました。
そんな日常の中で至った考えを今日は記事にしています。
先程も述べた通り、父が「ややこしい」というのは父の不安の対象のことです。そして、それは厳しい言い方をすれば、自分では理解できない、または相容れない不安な気持ちを他人のせいにしているということでもあります。
自らを顧みれば、不安といものは必ず自身の内側に存在しているので、本当は他人がややこしいのではなくて、正しくは「自分には分からない」ということになります。
つまり、不安なものに対して「ややこしい奴」だと捉えるのか、「自分には分からない」と捉えるのかで、ものの見方は大きく変わってしまうと私は考えます。
私は不安に対して「自分には分からない」という素直で謙虚な気持ちで、それらを受け入れた方が得だと思っています。
そうした方が、周りの人や物事に対する苦手意識や嫌悪感、果てはトラブルや自身の精神的な不調が減るだろうし、自分が不安に思っている事柄について学んで成長して理解していくことができるからです。
そうしていれば、不安なものに対する否定的な気持ちはいつかは克服されて消えてしまいます。
と理屈では言えても、人間なかなか感情的にそう捉えることも難しいのですが。。
江戸時代の俳人横井也有の俳句にこういうものがありました。
「化け物の正体見たり枯れ尾花」
幽霊だと思って恐る恐る見ていたものが、実は枯れたススキであったという意味です。
よく人の物事に対する捉え方が皮肉的にも表現されていますね。
人の不安な気持ちというものが、疑いの目をつくり、それが事実とは大きくかけ離れた恐怖へと繋がっていってしまうということが表現されています。
死ぬということもそうですよね。
死というものは、分からないからそれが得体のしれない恐怖へと変わってしまうのですが、実際はそれが一体、良いことなのか悪いことなのか誰も分かりません。
死を恐れるあまりに、過大に妄想が膨らんでしまっていることは、人間のものの捉え方の性質において、確かなことだと思います。
実際は自分達が死に対して無知なだけであって、本当は大したことではない可能性だってあります。
死の恐怖に打ち勝つ為には、自分には分からないことであると、まずは自分で認めることから始めなければなりません。そして、過大な妄想と恐怖を掻き立てないようにすることが大事なのかな思います。
人を好きになって不安に思う気持ちもそうですよね。
“メンヘラ”という言葉が流行っていますが、相手が自分のことを好きに思ってくれているか凄く不安になって、メンタルが病んでしまうこともあります。相手の愛情が欲しくて、構って欲しくて、つい過剰に要求してしまって逆に関係性が壊れてしまう場合もあります。
これも同じで、まずは「自分はとても不安なのだ」と捉えて、まずは冷静になる必要があると思います。そうすれば、自分が不安が故に見えている相手の行動が実は至って普通であり、それはただ自分への自信の無さがそうさせているのだと分かるかもしれません。
世の中はどんどん複雑になって、いろんな情報や物事が溢れていますが、その中で自分の立ち位置を見定めて、不安になりすぎないようにしていきたいものです。
「ユリのちょっとしつこい道徳〜化け物の正体見たり枯れ尾花」でした。
ご清聴ありがとうございました。